2015年に見た映画

 

ハンナ・アーレント

ずっと煙草すってるアーレントが格好良かった。

ハイデガーがなんか情けない。

 

アレクサンドリア

プラトン主義の女性哲学者ヒュパティアの生涯を描いた作品。

アレクサンドリア図書館が破壊されるシーンがぐっときた。

本を燃やすのは人類にとって自分で自分の首を絞めるのに等しい。

 

『ロリータ』

めちゃくちゃよかった。

原作もう一回読みたくなった。

 

シェルブールの雨傘

ミュージカル調の映画。曲がとても気に入った。

女の人って大体みんなあんな感じだと思う。

Je ne peux pas vivre sans toi(あなたなしでは生きられない)

と言いながらあっさり上書き保存をしていくものだ。

 

櫻の園

出てくる学生たちがダサいながらも可愛かった。

稽古場のシーンがとても印象に残った。

稽古場っていいよね。踊りにせよ演劇にせよ。

 

櫻の園』リメイク版

↑のやつよりいまいちだったので覚えてない。

 

『卍』

原作:谷崎潤一郎

短い映画ながらも強烈だった。

「僕にかてパッションあったんや」の台詞が頭から離れない。

これはやっぱり同性愛というより人間の性愛を描いた話だろう。

 

『美しさと哀しみと』

原作:川端康成

けい子役の加賀まりこがとてもかわいい。

ロリータっぽい子は好きだ。でも小説のほうが面白かった。

 

『ラブ・マイ・ライフ』

ロケ地が吉祥寺だったらしく見覚えのある風景ばかりでなんだか不思議だった。

いちこがエリーにマニキュアを塗ってもらうシーンがよかった。

私も自分の人生をもっとラブしたい。

 

『ラヴァーズキス』

お笑い芸人みたいなノリの子がよかった。

これも漫画のほうがいい。

 

『シャイン』

よくある孤独な天才ピアニストの話。

最後は父親と和解したけどなんだかなあ…という話だった。

 

マリア様がみてる

主人公の女の子かわいい。

相手役のスールのお嬢様も綺麗だった。

 

 

『くちづけ』

知的障害者支援施設を描いた物語。

途中まではほのぼのとした雰囲気だが、衝撃的なラスト。

普通なら子供に生きるすべを教えるのが親だけど、子供にその能力がない場合それは不可能だ。

父は娘に幸せを保障するために殺すという手段を選んだのかもしれない。

 

人のセックスを笑うな

主人公に片思いしてる女の子に片思いしてる男がけなげでよかった。

 

『草食男子の落とし方』

まず主人公が草食男子ではないので参考にはなりません。

準主人公の女性の薬剤師の親友が

「この仕事をしてると嫌になるわ。明るそうにふるまってる

この町の10人中9人は向精神薬を飲んでることが分かってしまうんだもの」

と言っていたのが印象的。

本当にアメリカはそんなにひどい鬱病大国なのだろうか。

 

『旅するジーンズと16歳の夏』

中学生のときに熱中して読んだ作品だけあって泣いた。

ベイリー役の子供が演技上手。

続編の『旅するジーンズと19歳の旅立ち』も見ようと思ったら

公開期間が過ぎてしまった。残念。

 

 

『風俗に行ったら人生変わったwwww』

あんまり面白くなかった。

主人公はワイパックスをまず飲んでから風俗に行け。

 

『暗闇から手を伸ばせ』

身体障害者専門のデリヘル嬢を描いた作品。

「この町にはな一万人以上の障がい者がいるはずなんだよ。

でもどこにいるんだ?道見たってほとんど歩いてねえだろ。

みんなひっそり生きてんだよ。

日本ってのは障がい者にとって超生きづらい国だからな」という台詞が頭に残ってる。

 

 

 

ソルジェニーツィン 『イワン・デニーソヴィチの一日』

 

 ソルジェニーツィン 『イワン・デニーソヴィチの一日』を読んだ。久しぶりにいい食べ物小説に出会ったという感じがする。この本はロシアの極寒の地の監獄で強制労働を強いられている男の話なので、豪勢な食べ物が出てくるわけではないがそこがいい。特に囚人たちに毎食与えられるカーシャ(お粥)がとても気になった。調べてみるとロシアの伝統的な料理らしい。雑穀のお粥だが、日本のお米とほぼ同じような感覚で食べられているそうだ。ミルクで煮て甘く味付けするものもあれば、ひき肉などを加えるものもあるらしい。ミルク風味のほうは日本人の口に合わないかもしれないが、おかず風のカーシャはとても気になる。どんな味なのだろうか。一体どれくらい腹が膨れるものなのだろうか。いつか成城石井などで蕎麦の実を見つけたら作ってみようと思う。

 

 一年くらい前に、私は食べることにある種の執着があるというような記事を書いた。この小説はまさにあの楽しみをありありと味あわせてくれるものだった。囚人たちが一日にありつける食事はハードな労働量にはまったく見合わないお粗末なものだ。朝は200グラムのパンと(このパンの量ですら理不尽に減らされかねない!)、わずかな肉と魚が入った野菜汁(バランダー)をすする。昼は少しばかりのカーシャ。夜は再びパンと野菜汁。ほかの囚人たちに一食分をおすそ分けしてもらうことができればより多く食べられるというわけだ。身内の者から小包が届いていれば、検閲を通り抜けて生き残ったわずかなソーセージや上等なバター、菓子などを口にすることもできる。しかし主人公のイワンは妻に小包を寄こさないよう言ってしまっているため、その小包が届くことはない。彼は来る日も来る日も同じ粗末なカーシャを食べ、野菜汁の肉や魚の量に一喜一憂するのだ。彼の生きがいは食べ物にある。そして彼はできるだけ腹をひもじくさせないで済むよう、パン一つでも計画的にちびちびと食べる。配給されたときに一気に食べないで、夜や労働の合間に食べられるよう寝床や膝のポケットに隠しさえする。食べるときには口をすぼめ、吸うようにしてパンの味をとことん味わう。カーシャを食べるときも、穀物の一粒一粒を噛みしめ出来るだけ腹をくちくさせることができるよう注意を払って食べる。時々、他の囚人からソーセージなどをおすそ分けしてもらうことがあれば、それを宝物のように大事に扱い、もっともよいタイミングでそれを味わう。タバコや紅茶などの嗜好品も同様だ。「法はときに覆されることがある」と彼は絶望しきったように序盤で述べる。しかし永遠に続くかのように思われる不当な労役の期間を、彼は食べることの大きな喜びに支えられてなんとか生き延びているのだ。もしこの収容所がもっと徹底しているところで、囚人間の物々交換が禁止されていたとしても、彼は自分に配給された分のわずかな食べ物をとことん味わい尽くしていただろう。彼に生きる気力を与えているのは間違いなく食べる楽しみを創造する力である。

「さあ、これからは食べることにすべてを集中させなければならないひとときだ」

 

 何が言いたかったのかというと、私は彼のように小さなことになんでも喜びを見出してしまう人間なので、食べ物を食べるときはいつもこのような心境なのである。私は強制労働をさせられているわけでもないのに一食一食がとても大事なのだ。実家にいると好きな時に好きなものを自由に食べられないのがもどかしいが、大学生になってからは外でいろんなものを自由に食べ歩けるようになったので前よりは満足している。私はジャンクフードでも少し高い料理でもなんでも喜んで食べてしまうが、食べるまで頭の中でそれはそれは長い推敲を重ねる。イワンのようにいつ、何時ごろ、どんなシチュエーションで食べるかが大事なのだ。適当に店に入って食べるのでは楽しくない。スパゲッティが食べたいと思ったら、知っている限りのスパゲッティのお店の候補を頭の中であげ、今はトマトクリーム系の口か、それともたらこ系の口なのか熟考するのだ。そして本当にスパゲッティを堪能できる空腹具合かをよく確かめてからお店に向かう。そして注文して一口一口ゆっくりとスパゲッティを食べる。誰にも邪魔されない至福の時間である。最近のお気に入りはサイゼリアのトマトクリームスパゲッティである。499円でここまで幸福感を得られるのだから幸せな人間なもんだ。なので最近は趣味を聞かれたら「食べ物が好きでよく食べ物を食べます」と答えるようにしている。なにはともあれ、私のような人間は絶対に楽しめる小説だと思うのでぜひとも読んでみて欲しい。

ゥチとプラトン

 

 プラトンを本格的に読むようになって一年が経った。私は大学に入ってすぐに専攻を決めたわけではないので、真剣に読むようになったのは3年生になってからである。(とはいえどこの大学でも同じように『饗宴』や『ソクラテスの弁明』などは読んでいたが)

 

 この一年は非常に収穫の大きい年であった。とはいえもちろんまだまだプラトンのことに関しては知らないことのほうが多い。ようやっと第一歩を踏み出せたといったところである。ところで私がプラトンのことを知ったのはいつだったのであろうか。最近このことが気になっている。たぶん小学生か中学生ぐらいの時だったと思うのだが、子供が情報を仕入れる範囲などたかが知れてるので、大体の人と同じように社会科の時間や、世界史の授業などで知ったと考えるのが妥当だと思われる。また私は小さいころ偉人の伝記を読むのが好きだったので、そういった本で知ったという可能性もある。いずれにせよ中学生の頃には確実にソクラテスくらいは知っていたような気がする。(そうでなければちょっと物を知らなさすぎるだろう)しかし「哲学」という学問があることは全く知らなかった。ソクラテス的な知の営みというのは「道徳」というものなのだと思っていた。ソクラテスプラトンのことについては全く知らなかったが、ギリシア神話については詳しかった。小学五年生のとき父親に一冊なら何か本を買ってあげると言われ、選んだのが里中満知子の『漫画ギリシャ神話』である。「神話」というものに魅かれたというのもあるが、どちらかというと絵の美しさに魅せられてであった。超イケメンのアポロンディオニュソスに魅かれたのである。この漫画は7冊ほど出ているのだが、基本的にどこから読んでも楽しめる構成になっている。なぜか私はそのときトロイア戦争の巻を選んで買ってもらった。その時はゼウスのゼの字も知らなかったので、こんなハチャメチャな神が出てくる神話があっていいのか!ギリシア人の頭の中は一体どうなってるんだ!という感想を抱いた。(きっと誰でもそうだろう)しかし気付けばいつのまにかその世界観にどっぷりとハマり、雷が鳴ればゼウス様が!などと言うような子供になってしまった。そこからはギリシア神話関連のものを読み漁り、どんどん古代ギリシャにハマっていった。話はやや変わるが、私の中学時代の得意科目は英語であった。小さいころから強制的にやらされていたせいでもあったが、唯一の得意科目であったので英語だけは頑張っていた。高校に上がってからは2011年に上野で開催されていた「古代ギリシャ展」のディオニュソス像に感動し、そのことを英語でプレゼンテーションしたりもしていた。英語では神話の登場人物の発音が異なることなど、そうした発見がいちいち楽しかった。また英語を勉強していくうちに語源をたどることの面白さにも目覚め、ラテン語や古典ギリシャ語への興味も出てきたのである。まったく私の人生はギリシャに行きつくようセッティングされていたかのようである。

 

 とはいえまだまだプラトンには辿りつかない。私は受験で世界史を利用したのでようやくここではっきりとプラトンと出会うことになる。どの教科書もたいていは古代ギリシャ史から始まる。ギリシャ神話は好きだったので熱心に聞いた。だが戦争の順番を覚えるのは得意ではなかったので少し苦労した。そしてお決まりのプラトンが出てくる。おそらくここで初めてイデア論の話を聞いたのではないかと思う。イデアという考えは容易に理解できた。一体イデアってなんなんだろうと思った。が、その時は所詮古代の思想なのできっともう誰も信じていないのではと思った。(大学に入ってからそれは大きく覆される。なぜ私たちはあれよりもこれがより美しいと言うことができるのか今でもわからない。やっぱりイデア的なものがあるのではと感じずにはいられない)結構脇道に反れて、面白いエピソードを聞かせてくれる先生だったので、アリストファネスの『女の平和』のセックスストライキの話も聞いた覚えがある。もちろん高校の授業なのでソクラテスプラトンアリストテレスの流れ、そして少しだけソクラテス以前の哲学者を扱うだけであったが、なんともいえない興味をそそられるのを感じた。当然忙しい時期であったのでそこからプラトンを読むまでには至らなかったが、大学に入ったらやっぱりギリシャ神話やギリシャ文化を勉強したいなという気持ちを持った。そしてその後塾で偶然、哲学科卒の講師に当たり哲学の世界というものを知ることになった。彼の話の何もかもが面白くのめりこむようにして授業を聞いた。

  

 私は昔からぼんやりといろんなことを考える子であった。「宇宙の果てには一体何があるのだろう」「私たちは宇宙から見たらただのアリのようなものではないか。なのになぜ一生懸命生きるんだろう?」「時間というものは誰が最初に1秒というものを計測したのか?過去ってなに?」「死んだら無になるのか?意識はどうなるのか?」「なぜキリスト教はあるんだろう。なぜ世界中の人がイエスをそんなに熱心に信じるのだろう?」「石や植物に心はないのか?」「感情はなんであるんだろう?」「音読するときに自分の頭の中で響く声はなんだろう?」などなど、哲学を勉強した今ならわかるが、デカルトパスカル、はたまたベルクソンが証明しようとしたことと非常に類似した問いを私は子供時代のうちに無意識に立てていたことが分かる。そう私はやはり生まれながらに哲学する人であったようである。しかし、こんなことを考えても何にも役に立たないし、きっと人に話したら馬鹿にされたり暗い子だと思われそうだったので口に出すことはなかった。だがやはり寝る前などになるとこうしたことを延々と考えてしまうのだった。だからまさに哲学との出会いは今までの自分の思索をすべて肯定してくれるものであったので、その驚きと喜びは大きかった。また哲学が他の国では必須の教養とされていることを知って愕然ともした。私は幼少のころからナルシストな傾向を持っていたが、根は弱気な人間であったので自分の考えにはあまり自信がなかった。それだけに感動もひときわ大きかったのである。そこから私と哲学の歩みが始まったのだ。

 

  こうして哲学科を志望すると決め、まず最初に勉強の息抜きがてら読もうと思ったのはキケロの『友情について』であった。だが登場人物の名前が覚えられず、対話篇にもかかわらずすぐに挫折した。ここで大人しく本屋に山積みになっている『ソクラテスの弁明』などを読めばよかったものの、なぜかウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』やキルケゴールの『死に至る病』などに手を出してしまったため、何も理解できず、ただ「ちゃんとやろうとすると哲学って難しいんだ…」という誤ったイメージを自分の中に植え付けてしまっただけであった。(そのおかげで一生懸命勉強するようにはなったが)その後無事大学に合格することができた。ここでも運命を感じるようなエピソードがある。入試の世界史で古代ギリシャ史が出たのである。「アポロンが私を呼んでいる!!!」と感じた。もちろん完答である。今でも大学に合格できたのは、英語とあの世界史のおかげだったのではないかと思っている。

 

 そんなこんなでやっと本格的に哲学を学ぶようになる。とはいえ最初は入門の授業であったから世界史の延長線上のようなものである。だが初めて触れるソクラテス以前の哲学者の思想はどれも面白く興味を魅かれるものばかりであった。また先生も大変よい人であったため熱心に授業を聞いた。その結果大変よい成績を取ることができ自分の自信にも繋がった。その後は他の時代の思想も学ぼうと積極的にハイデガーパスカルを勉強していたので古代哲学とは少し離れていた。そして時がたち専攻を決める時が来た。大学に入ってから知ったどの哲学者も面白かったが、やはり心に一番残っていたのはプラトンソクラテスであった。他の時代の様々な哲学者の思想を学んだが、やはりソクラテス的な哲学のありかたが一番正しいように思うのである。もちろん現代に生きる我々には合わない部分もあるだろう。しかし生きる姿勢として見習うべきなのはやはりソクラテス的なありかたなのではないか。またやや話が反れるが、私は昔から人とよく喧嘩する子であった。というのも自分の価値観や正義観というのが結構はっきりしていて、正しいことは正しい、間違っていることは間違っているとはっきりと言う子であったからである。曖昧にしたり、他の人々に簡単に同調する子供が大嫌いであった。もちろんこの「正しさ」は子供の独善的な「正しさ」なので必ずしも正しかったとは限らないが、私にはこうした譲ることのできない自分なりの「正義」が根底にあったのだと思う。昔からこのように謎の正義感の強さがあったので、プラトンの対話篇で何回も出てくる「本当に正しいこととは何か?妥協をしないで人間に可能な限り何回も検証し、真理を追究する」という態度は非常に自分に合っていた。とにかく世間一般がそう言っているから、ということで善悪を判断したり、物事を解釈するのが嫌だったのである。やはり私は生まれながらにしてプラトンを学ぶように定められていたようである。

 

 そんなこんなでやはり専攻はプラトンになった。そして今は卒論のテーマを模索している真っ最中である。専攻ともなるとただ「無知の知」や「イデア」だけを知っているだけでは済まされず、テクストの細かい精読が求められる。もちろんそう簡単ではなく、日々自分の勉強不足を感じさせられている。しかしやはりプラトンは読んでいて面白い。面白いから諦めないで読み続けることができる。私の人生はざっと振り返ってみて以上のようなものであったので、きっとこれからもいろんな偶然に左右されながらもギリシャ哲学と関わっていくことになるだろう。(もちろんほかの哲学とも)私の長い人生、プラトンに言わせればたった一瞬の生にすぎないが、それでも私がこうしてプラトンに出会ったのはなにかしらの運命だったように思うのである。一匹のアリが奇跡だ!と思い込んでいるだけなのかもしれないが、それでも偶然の力によって私の心の「哲学の火」が灯された以上、それを無駄にするのはもっともプラトンの意に反することである。私は神を信じていないが、やはりこうして身体があって、哲学的な思惟が出来るというのは森羅万象から与えられた最大の贈り物であり恵みであると思わずにはいられない。一体何が正義で何が真理であるのかということはおそらく人間がこれからもずっと問い続けていくことであると思う。答えが出ないから哲学は無駄だと言われるが、答えが出ないのが哲学なのである。一つの答えを出すということよりも、世界は毎日変わってゆくのだからそれにあわせて考えることをやめないということが大事なのである。一つの結論が出るとするならば、それは世界が完結したときだけであろう。(それでも論争が起きそうだが)私は小さな人間で、世界に大きく影響を与えることはできないかもしれないが、それでも先人の与えてくれた教えを胸に、「善く生きる」ことを実践していきたいと心から思っている。それは決して宗教的な怪しいものでもなんでもなく、人間として立派にまっとうに生きることである。そしてそういう人間が増えることがやはり善い世界を作ることになるのだと信じている。世の誤ったプラトン解釈を正す意味でも、一人の人間として自分なりの答えを出すという意味でも、私はこれからも真摯にプラトン研究を続けていきたい。研究者になれるとは思わないが、これからも一生私はプラトンを読み続けていくだろう。

 

※アルキビアデスに傾倒した時期のことなどの面白い話はまた書きます。

ギリシャとギリシアを統一してなくてすみません。面倒だっただけで特に意味はないです。

 

 

食べること

5月1日

 

私は食べることに一種の執着心がある。

 

 誰しも昼休みの前に「今日はこれが食べたいな」という思いに駆られてどうしようもなくなってしまい、お金がきついにも関わらず無理してお目当ての通りの食事をしたことがあるだろう。いわゆる「今はカレーの口なんだよねー」というやつである。私は恥ずかしながら常にその状態にあるような物で、四六時中食べ物のことばかり考えている。ただ考えているのではなく、何度も何度もなぜそれを今すぐ口にしたいのか授業中でも帰り道であろうと吟味する。羊羹がふと食べたくなれば、ネットで羊羹のいいところを調べ(あんこは脂肪になりにくい上、すぐエネルギーとして吸収されるためよい栄養補助食となる)、あげくには新発売の羊羹情報までゲットして、完全に「羊羹の口」にしてから購入に至る。食べる瞬間というのも大事で、お腹が空きすぎていれば羊羹を食べたとしても、すぐに他の炭水化物が欲しくなってしまい、せっかくのあんこを食べたという満足感が薄れてしまうだろう。程よくお腹が膨れていて、かつカスタードのようなこっくりした甘さを求めていないときに食べるのが一番良いのだ。そのためには何日か鞄に忍ばせることも私は辞さない。(もちろん密閉されたやつである。コンビニなんかで売っているような)他の人はこのような面倒な作業をやっているのかどうか分からないが、私にとっては「食の前調べ」はこの上ない至福の時間である。食欲はふとしたときに湧いてくるが、湧いてきたら最後。あれこれと想像を巡らしながらそれを食べる瞬間まで、恥ずかしながら頭の中はそのことでいっぱいになってしまうのだ。

 

 私は昔から本に出てくる食べ物の描写も大好きだった。ライラの冒険に出てくる「かみでのあるビーフジャーキー、甘酸っぱい匂いのするさくらんぼ、粉っぽく塩辛いチーズ」、ガールズシリーズのエリーがダイエット中に見たピザ、ナディーンが馬のように齧ったチョコレートバー。最近気に入ったものだと『1984年』の中に出てきた「べちゃべちゃしたシチュー、質の悪いジン、ヴィクトリーコーヒー」なんかがある。よい作家であるかを見抜くには食べ物の描写を見ればよいといった人がいるそうだが、その人に私は大賛成である。私はこのような描写に出会ってしまうとたちまち、わざわざ主人公と同じような状態に自分を置いて、主人公が感じたように食べずにはいられなくなる。先にあげたピザの誘惑と戦うエリーの描写は今でもはっきりと頭に残っていて、ピザを食べるたびにその文章を思い浮かべる。冷凍ピザを電子レンジにいれ、その間に炭酸の飲み物を用意する。レタスとトマトだけの少し口寂しい質素なサラダがあればなおよい。エリーがいたのはイギリスのピザハットなので、イギリス人の好むような脂っこいチーズなどはないがそれは我慢するしかない。ピザはチーズが少しぐつぐついうくらいにチンするのが私のこだわりである。2分40秒辛抱したあと、まだアツアツのピザを一口サイズに切り分けて手で少しずつ食べる。いかにも体に悪そうな安っぽいサラミをゆっくり噛み、じわっとあふれ出る油の味にうっとりする。時は午前12時。一番お腹が空いているときにやらなくては意味がないのだ。エリーは拒食症寸前になるほどの無理なダイエットをしていたのだから。

 

 ・・・とこのように私があるものを食べるとき一体何を考え食べているのかということを上げたらキリがないが、ほぼ全ての食べ物に私なりの思い入れがあることは間違いない。瓶入りのピクルスだろうと、マックのポテトだろうと、それを一番美味しく食べるための想像力が私にはある。こういったことを誰かと共有できたら楽しいのかもしれない。だが経験はミルフィーユのようなもので人それぞれ多様なものなのでそのような押し付けは出来ない。せめて誰かと向き合って食事をしているとき、二人がそれぞれの食事を美味しくすることの出来る思い出のスパイスを回想し、幸せな時間を過ごせれば良いのではないだろうか。

 

fin

 

 

4月16日

 

人は一体どこまで日常を深く見つめているのだろうとふと思う時がある。学生や社会人、専業主婦やお年寄り。世界にはさまざまな人がいるが、年齢とともに何かをじっと見る力は増していくのだろうか、それとも減っていくのだろうか。ここで私がいう「見つめる力」というのはただじっと物を見るだけではなく、ある種の感性的なものを感じ取ることの出来る力である。それは子供であっても可能だろう。たとえば子供は蟻の行列を見ただけで、その蟻の家族、働きぶり、そして蟻の性格までをも想像することが出来る。空想は子供にとって一つの価値観の構成要素に十分なり得る。大人も想像力が豊かでやや夢見がちな人ならばそういったことを思い浮かべることはよくあるだろう。大人になれば物心がついているぶん、子供のころに思い浮かべたような突飛な空想はさすがにしなくなるが、それでも思わず自分でもくだらないなと思ってしまうようなことを想像してしまうことはあるだろう。ジェイン・オースティンの娘達などまさにそのパターンで(わけのわからない例ではあるが)空想で物語を無理やり押し進めてると言ってもよい。オースティンの特徴的な文体としてあげられる自由間接話法は、空想の世界に読者が上手く浸ることができるようにするための魔法である。やや話がそれたが、「見つめる力」は思っている以上に大きな影響をさまざまなものにもたらすものだと私は思う。「見つめるあなた」は対象物から無意識のうちに価値観を変化させるきっかけを与えられる。例えば電車にて。前に座っている女性は身なりこそきっちりとしていて華奢な就活生だが、顔一面に濃く出ている疲労の影が彼女の美しさを少し損ねていると思った場合。彼女のほうれい線のちょっとしたたるみ、崩れかかったアイシャドウ。そうしたものを「見つめるあなた」は凝視したことはないだろうか。私は失礼なことだとは思うが凝視せずにはいられない。それは私が「表情は人の性格を表す」といった格言の類を信じているせいなのでもあるが、人と人、たまたま偶然に出会った者同士として少し観察をしないではいられないのだ。そこから何を得るか、私は勝手に彼女のこれまでの人生を思い描いてみたりする。彼女はお嬢様だろうか、よくいる女子大生だろうか・・・と。自然。「見つめるあなた」は海岸に立っている。夕日が煌々と砂浜を照らしていて、あたりは神秘的な雰囲気に包まれている。そんな時あなたは何を見つめているのだろうか。空間か。いずれにせよあなたが「神秘的」と感じるのは海と夕日を見てでのことである。しかし以前に同じような風景にテレビ番組で出くわしたりはしなかっただろうか。それとも過去のとある光景と照らし合わせてあなたはその時の流れに感動しているのだろうか。はたまた単純に自然の雄大さに息を飲んでいるのだろうか。何に感動しているにせよ、その働きは素晴らしいものであるのは言うまでもない。ただ私が最近勝手に危惧しているのは、その内面の情動をどうでもいいものとして扱っている人が多いのではないかということである。むろんこれは勝手な推論なので何の根拠もないし、最終的には私お決まりの自己愛的な結論に達することになるのだが(どうか頑張って最後まで読んでほしい)日常的なものであれ、非日常的なものであれ、そのことやものは、その一瞬しか起こらない。瞬間的なものだから尊いというのではなく、瞬間的なものがあなたに必ずなんらかの形で影響しているのだからもっと気を付けて見てみて欲しいということである。それが自然であれ、他人の化粧であれ、人は生きる限り何かを見つめ変化に気づく。変化に気づくのに数年かかる場合ももちろんあるであろう。しかし根気よく周りをじっと見てみて欲しい。自分でもなぜこんなことを書いて人に勧めているのか分からなくなってきたのだが、世界は様々なあり方で私にアピールをする。そうでないときは夢を見ないで熟睡できた時ぐらいである。「見つめる力」を強くせよというよりは、その時間をゆっくりと取ってみよというほうが正しいのかもしれない。いかんせん現代人は忙しいと言われるし実際にそうである以上なかなかそうもいかないかもしれない。しかし見渡すのは今自分のまわりにあるもので十分だと私は思う。「なぜ私はここに座って授業を聴いているのか。先生の表情は?隣の人の服は?シャーペンはいつから持っているもの?その錆は?窓から差し込む陽光は?」こうしたすべての事柄は「あなた」の性格の材料となっていく。何かをしっかり見ることで私たちは自分をよりよく理解し、もう少し丁寧に毎日を生きることが出来るようになるかもしれない。

 

本当はもっと感性的なことが書きたかったけどねこいたっちの能力では無理でした。とりあえずねこいたっちは物そのものとはなんぞやと最近考えているというだけです。クソ現象学気取りでした。すみません。今日のお昼は大学で動悸と戦いながら鶏弁当を食べました。マヨネーズの乗ったきんぴらごぼうが美味でした。

 

 

チリの地震

 

3月12日

 

12時に起床。昼食に昨晩の残りのブロッコリーと海老のグラタンを少しと(気持ちパスタ少な目)生のトマトを丸かじりする。デザートは無糖のヨーグルト。そう今私はダイエットをしているのである。とはいえそんなに極端なものではなく、癖になっていたダラダラ食いを止めて、栄養のある食事を心がけようというくらいのものだ。あとは糖分を控えてみたり。お茶をたくさん飲んで体温を上げようとしてみたり。あとはお風呂でかっさマッサージを頑張っている。

 

午後は新宿に徘徊しに行った。行きの電車でハインリヒ・フォン・クライスト短編集の『チリの地震』を読んだ。この本は去年の六月くらいにどこかの古本屋で見つけたものだが、こうして手に取るまで大分時間がかかってしまった。別に震災を意識して今日読んだわけではない。なぜ今日読む気になったのか、それは昨晩に読み終えたフラナリー・オコナーの『賢い血』の訳者あとがきで、『ミヒャエル・コールハース』について触れられていたのを目にしたからだ。『ミヒャエル・コールハース』は読んだことがないが、その名前は大江健三郎の『美しいアナベル・リイ』の中で出てくるミヒャエル・コールハース計画なるものから偶然に知っていた。というわけでひょんなことからハインリヒさんを本棚から引っ張り出すことに決めた。(自分の少ない知識が繋がった瞬間の快感よ!)『チリの地震』の感想としては、震災から3年たちニュースなどで「希望」や「助け合い」などの言葉を多く耳にする今の時期に読むものではなかったという感じである。この作品のあらすじからネタバレまでしてしまうと、修道女が何故か妊娠→ぶっ殺せ!→処刑される寸前に大地震発生→つかの間のユートピア共生感覚の生まれ・命あることへの感謝→やっぱりぶっ殺せ!→女、子供とともに殴り殺される。というなんともグロテスクな話。地震を体験した身としては、災害のあとのあの妙な人々との連帯感は嫌というほどわかるので何とも言えない気持ちになった。「助け合い」とは聞こえのよい言葉だし、そうするべきではあるのだが…果たして人間が本当に心の底からそれを行うことが出来るだろうか?地震という誰もが命を脅かされた状況にあってこそ神にすがるような思いで、他者を救うことは出来ても、日常では難しい。人間とはどこまでも利己的だ。それゆえ人災が起きるのである。災害は人を団結させもするし、より人を野性的にもする。それは本能的なものだし仕方のないことではあるが、それに気付いているかいないかということでは大きな違いが出てくると思う。災害ユートピアなるものについて私は何も知らないので、コメントすることは出来ないが非常に興味深いと思っている。(災害ユートピアってこういう使い方であってるのかな?)特にこの小説の「あたかもあの共通の不幸がそこからのがれ出た人びとすべてを一つの家族と化せしめたかのように、野原には目路のとどくかぎり、領主と乞食、老貴婦人と農婦、官吏と日雇人夫、僧院長と尼僧、とあらゆる階層の人間がごたまぜにまじりあり、同情を寄せあい、たがいに助け合い、生命を保つよすがとなりそうなものをよろこんで分かちあうさまが目撃されたのである」(P.24)という一文が印象に残った。話は戻るがそもそもなぜこの本を買おうかと思ったのかというと、高校生のころ尊敬していた先生が震災の直後「売り切れになるかもしれないから見つけたら買っておいたほうが良いかもしれない」と言っていたのを覚えていたからである。…確かにこれは一読の価値ありだと思う。ところでクライストさんは34歳で女性を射殺して自身もその後その銃で自殺というなかなかクレイジーな生涯を送っている。これからもっと色々読んでみよう。最近やっと本読む気になった。

 

帰りは誘惑に負けてベーグル買いました。

日記

12月16日

 

ここ最近は毎日がなんとなく楽しい。何か特別なことがあったわけじゃないけれど・・・。意識的に自分のしたいことを優先してやっていたら幸福度が高まっていたという感じだ。といってもそんなに何かすごいことをしたわけではなく、朝食やお昼に自分の好きなものを食べたりとか、学校の後にウィンドーショッピングをしたりとかそういったものだ。最近はあまり人と一緒にいたいという気持ちではなかったので基本的に一人ですることばかりだけど、毎日ちょっとした甘やかしを自分にしていたらなんとなく元気になってきた気がする。人間としては堕落していると思うし(少なくとも私の基準の中では堕落している)他の人からも何の苦労もしていないと思われているかもしれないけど、そういう自堕落なのはダメっていうのは客観的な判断であってそれを下す本人は何も私を救ってはいかない通りがかりの人なのだから関係ないじゃないかと割り切れるようになった。・・・とはいえ少しだらだらしすぎなのでどこかでしっかり立て直さねばという気もある。

 

昨日はフォロワーの誕生会&忘年会に行ってきた。大勢でのオフ会は久しぶりなのでつらくならないか心配だったが結果的にとても楽しかった。お店が座敷だったのもよかったかもしれない。テーブル席はどうも固定されてしまうような気がして苦手だ。あんなに大勢でわいわい寝っころがったりしながらはしゃいだことはない。帰りも満員の終電に揺られながらずっと余韻に浸っていた。初めて会う人もいれば、何回目かの人もいた。自分は健全に生きようと努めてきたので(健全にとはたとえば「ネットの人とは会わないようにしましょう」のような謎の道徳に従うこと)オフ会という行為にはどうしてもまだ罪悪感がつきまとう。ほんとうに楽しいのだけれど、家に帰るとなんともいえない気持ちになってしまう。ネットを介して会うというのは、例えば大学入試に通った者同士が入学式で会うみたいなものだと考えてしまえばラクになれるのかもしれないけど。まあこうした意識はネットの犯罪に巻き込まれないためにも全然ないよりはあったほうが良いのかもしれない。いずれにせよツイッターで得たものも多いし失ったものも多い。それは割愛するとして、自分は昔からネットが好きだったのでよく変なチャットやネトゲのようなものに手を出したりしていた。素性も知れぬ人とよく夜な夜なチャットをしたりしていたものだ。その時は悪いことをしているなあという気持ちはあったものの、ほんとうに友達がいなかったので暇つぶし感覚だった。あの頃よりは多少考え方が大人になった今も根本的には変わっていないのだと思う。現実の世界でゆっくり自分の話を聞いてくれる人はいないし、私自身も興味のある人以外深く知りたいと思わない。何の発展もない生活で、自分が好きなように人を選別できる場所があるのは便利だ。でもそれってすごく残酷なことで、勿体無いことでもあると最近感じている。すごく自分の性格には合っていてついのめりこんでしまうのだけど、どこかで歯止めをかけなければという気はしている。そもそもオフ会に行きだしたのもどんな人間が来るかそのドキドキを味わいたい、非日常的なものに触れたいという気持ちでありちょっとした反抗心からだったので、そろそろ日常的なもののありがたさにもう一度目を向けるべきかもしれない。もちろん素晴らしい出会いもあったし全てを後悔しているわけではない。それでもやはりネットはネットだということを忘れてはいけないと健全な私は思ってしまう。若気の至りとはまさにこういうことを言うのだろう。ツイッターは今では健全に生きてきたつもりの私がちょっとしたスリルを味わう場所だ。