食べること

5月1日

 

私は食べることに一種の執着心がある。

 

 誰しも昼休みの前に「今日はこれが食べたいな」という思いに駆られてどうしようもなくなってしまい、お金がきついにも関わらず無理してお目当ての通りの食事をしたことがあるだろう。いわゆる「今はカレーの口なんだよねー」というやつである。私は恥ずかしながら常にその状態にあるような物で、四六時中食べ物のことばかり考えている。ただ考えているのではなく、何度も何度もなぜそれを今すぐ口にしたいのか授業中でも帰り道であろうと吟味する。羊羹がふと食べたくなれば、ネットで羊羹のいいところを調べ(あんこは脂肪になりにくい上、すぐエネルギーとして吸収されるためよい栄養補助食となる)、あげくには新発売の羊羹情報までゲットして、完全に「羊羹の口」にしてから購入に至る。食べる瞬間というのも大事で、お腹が空きすぎていれば羊羹を食べたとしても、すぐに他の炭水化物が欲しくなってしまい、せっかくのあんこを食べたという満足感が薄れてしまうだろう。程よくお腹が膨れていて、かつカスタードのようなこっくりした甘さを求めていないときに食べるのが一番良いのだ。そのためには何日か鞄に忍ばせることも私は辞さない。(もちろん密閉されたやつである。コンビニなんかで売っているような)他の人はこのような面倒な作業をやっているのかどうか分からないが、私にとっては「食の前調べ」はこの上ない至福の時間である。食欲はふとしたときに湧いてくるが、湧いてきたら最後。あれこれと想像を巡らしながらそれを食べる瞬間まで、恥ずかしながら頭の中はそのことでいっぱいになってしまうのだ。

 

 私は昔から本に出てくる食べ物の描写も大好きだった。ライラの冒険に出てくる「かみでのあるビーフジャーキー、甘酸っぱい匂いのするさくらんぼ、粉っぽく塩辛いチーズ」、ガールズシリーズのエリーがダイエット中に見たピザ、ナディーンが馬のように齧ったチョコレートバー。最近気に入ったものだと『1984年』の中に出てきた「べちゃべちゃしたシチュー、質の悪いジン、ヴィクトリーコーヒー」なんかがある。よい作家であるかを見抜くには食べ物の描写を見ればよいといった人がいるそうだが、その人に私は大賛成である。私はこのような描写に出会ってしまうとたちまち、わざわざ主人公と同じような状態に自分を置いて、主人公が感じたように食べずにはいられなくなる。先にあげたピザの誘惑と戦うエリーの描写は今でもはっきりと頭に残っていて、ピザを食べるたびにその文章を思い浮かべる。冷凍ピザを電子レンジにいれ、その間に炭酸の飲み物を用意する。レタスとトマトだけの少し口寂しい質素なサラダがあればなおよい。エリーがいたのはイギリスのピザハットなので、イギリス人の好むような脂っこいチーズなどはないがそれは我慢するしかない。ピザはチーズが少しぐつぐついうくらいにチンするのが私のこだわりである。2分40秒辛抱したあと、まだアツアツのピザを一口サイズに切り分けて手で少しずつ食べる。いかにも体に悪そうな安っぽいサラミをゆっくり噛み、じわっとあふれ出る油の味にうっとりする。時は午前12時。一番お腹が空いているときにやらなくては意味がないのだ。エリーは拒食症寸前になるほどの無理なダイエットをしていたのだから。

 

 ・・・とこのように私があるものを食べるとき一体何を考え食べているのかということを上げたらキリがないが、ほぼ全ての食べ物に私なりの思い入れがあることは間違いない。瓶入りのピクルスだろうと、マックのポテトだろうと、それを一番美味しく食べるための想像力が私にはある。こういったことを誰かと共有できたら楽しいのかもしれない。だが経験はミルフィーユのようなもので人それぞれ多様なものなのでそのような押し付けは出来ない。せめて誰かと向き合って食事をしているとき、二人がそれぞれの食事を美味しくすることの出来る思い出のスパイスを回想し、幸せな時間を過ごせれば良いのではないだろうか。

 

fin