ゥチとプラトン

 

 プラトンを本格的に読むようになって一年が経った。私は大学に入ってすぐに専攻を決めたわけではないので、真剣に読むようになったのは3年生になってからである。(とはいえどこの大学でも同じように『饗宴』や『ソクラテスの弁明』などは読んでいたが)

 

 この一年は非常に収穫の大きい年であった。とはいえもちろんまだまだプラトンのことに関しては知らないことのほうが多い。ようやっと第一歩を踏み出せたといったところである。ところで私がプラトンのことを知ったのはいつだったのであろうか。最近このことが気になっている。たぶん小学生か中学生ぐらいの時だったと思うのだが、子供が情報を仕入れる範囲などたかが知れてるので、大体の人と同じように社会科の時間や、世界史の授業などで知ったと考えるのが妥当だと思われる。また私は小さいころ偉人の伝記を読むのが好きだったので、そういった本で知ったという可能性もある。いずれにせよ中学生の頃には確実にソクラテスくらいは知っていたような気がする。(そうでなければちょっと物を知らなさすぎるだろう)しかし「哲学」という学問があることは全く知らなかった。ソクラテス的な知の営みというのは「道徳」というものなのだと思っていた。ソクラテスプラトンのことについては全く知らなかったが、ギリシア神話については詳しかった。小学五年生のとき父親に一冊なら何か本を買ってあげると言われ、選んだのが里中満知子の『漫画ギリシャ神話』である。「神話」というものに魅かれたというのもあるが、どちらかというと絵の美しさに魅せられてであった。超イケメンのアポロンディオニュソスに魅かれたのである。この漫画は7冊ほど出ているのだが、基本的にどこから読んでも楽しめる構成になっている。なぜか私はそのときトロイア戦争の巻を選んで買ってもらった。その時はゼウスのゼの字も知らなかったので、こんなハチャメチャな神が出てくる神話があっていいのか!ギリシア人の頭の中は一体どうなってるんだ!という感想を抱いた。(きっと誰でもそうだろう)しかし気付けばいつのまにかその世界観にどっぷりとハマり、雷が鳴ればゼウス様が!などと言うような子供になってしまった。そこからはギリシア神話関連のものを読み漁り、どんどん古代ギリシャにハマっていった。話はやや変わるが、私の中学時代の得意科目は英語であった。小さいころから強制的にやらされていたせいでもあったが、唯一の得意科目であったので英語だけは頑張っていた。高校に上がってからは2011年に上野で開催されていた「古代ギリシャ展」のディオニュソス像に感動し、そのことを英語でプレゼンテーションしたりもしていた。英語では神話の登場人物の発音が異なることなど、そうした発見がいちいち楽しかった。また英語を勉強していくうちに語源をたどることの面白さにも目覚め、ラテン語や古典ギリシャ語への興味も出てきたのである。まったく私の人生はギリシャに行きつくようセッティングされていたかのようである。

 

 とはいえまだまだプラトンには辿りつかない。私は受験で世界史を利用したのでようやくここではっきりとプラトンと出会うことになる。どの教科書もたいていは古代ギリシャ史から始まる。ギリシャ神話は好きだったので熱心に聞いた。だが戦争の順番を覚えるのは得意ではなかったので少し苦労した。そしてお決まりのプラトンが出てくる。おそらくここで初めてイデア論の話を聞いたのではないかと思う。イデアという考えは容易に理解できた。一体イデアってなんなんだろうと思った。が、その時は所詮古代の思想なのできっともう誰も信じていないのではと思った。(大学に入ってからそれは大きく覆される。なぜ私たちはあれよりもこれがより美しいと言うことができるのか今でもわからない。やっぱりイデア的なものがあるのではと感じずにはいられない)結構脇道に反れて、面白いエピソードを聞かせてくれる先生だったので、アリストファネスの『女の平和』のセックスストライキの話も聞いた覚えがある。もちろん高校の授業なのでソクラテスプラトンアリストテレスの流れ、そして少しだけソクラテス以前の哲学者を扱うだけであったが、なんともいえない興味をそそられるのを感じた。当然忙しい時期であったのでそこからプラトンを読むまでには至らなかったが、大学に入ったらやっぱりギリシャ神話やギリシャ文化を勉強したいなという気持ちを持った。そしてその後塾で偶然、哲学科卒の講師に当たり哲学の世界というものを知ることになった。彼の話の何もかもが面白くのめりこむようにして授業を聞いた。

  

 私は昔からぼんやりといろんなことを考える子であった。「宇宙の果てには一体何があるのだろう」「私たちは宇宙から見たらただのアリのようなものではないか。なのになぜ一生懸命生きるんだろう?」「時間というものは誰が最初に1秒というものを計測したのか?過去ってなに?」「死んだら無になるのか?意識はどうなるのか?」「なぜキリスト教はあるんだろう。なぜ世界中の人がイエスをそんなに熱心に信じるのだろう?」「石や植物に心はないのか?」「感情はなんであるんだろう?」「音読するときに自分の頭の中で響く声はなんだろう?」などなど、哲学を勉強した今ならわかるが、デカルトパスカル、はたまたベルクソンが証明しようとしたことと非常に類似した問いを私は子供時代のうちに無意識に立てていたことが分かる。そう私はやはり生まれながらに哲学する人であったようである。しかし、こんなことを考えても何にも役に立たないし、きっと人に話したら馬鹿にされたり暗い子だと思われそうだったので口に出すことはなかった。だがやはり寝る前などになるとこうしたことを延々と考えてしまうのだった。だからまさに哲学との出会いは今までの自分の思索をすべて肯定してくれるものであったので、その驚きと喜びは大きかった。また哲学が他の国では必須の教養とされていることを知って愕然ともした。私は幼少のころからナルシストな傾向を持っていたが、根は弱気な人間であったので自分の考えにはあまり自信がなかった。それだけに感動もひときわ大きかったのである。そこから私と哲学の歩みが始まったのだ。

 

  こうして哲学科を志望すると決め、まず最初に勉強の息抜きがてら読もうと思ったのはキケロの『友情について』であった。だが登場人物の名前が覚えられず、対話篇にもかかわらずすぐに挫折した。ここで大人しく本屋に山積みになっている『ソクラテスの弁明』などを読めばよかったものの、なぜかウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』やキルケゴールの『死に至る病』などに手を出してしまったため、何も理解できず、ただ「ちゃんとやろうとすると哲学って難しいんだ…」という誤ったイメージを自分の中に植え付けてしまっただけであった。(そのおかげで一生懸命勉強するようにはなったが)その後無事大学に合格することができた。ここでも運命を感じるようなエピソードがある。入試の世界史で古代ギリシャ史が出たのである。「アポロンが私を呼んでいる!!!」と感じた。もちろん完答である。今でも大学に合格できたのは、英語とあの世界史のおかげだったのではないかと思っている。

 

 そんなこんなでやっと本格的に哲学を学ぶようになる。とはいえ最初は入門の授業であったから世界史の延長線上のようなものである。だが初めて触れるソクラテス以前の哲学者の思想はどれも面白く興味を魅かれるものばかりであった。また先生も大変よい人であったため熱心に授業を聞いた。その結果大変よい成績を取ることができ自分の自信にも繋がった。その後は他の時代の思想も学ぼうと積極的にハイデガーパスカルを勉強していたので古代哲学とは少し離れていた。そして時がたち専攻を決める時が来た。大学に入ってから知ったどの哲学者も面白かったが、やはり心に一番残っていたのはプラトンソクラテスであった。他の時代の様々な哲学者の思想を学んだが、やはりソクラテス的な哲学のありかたが一番正しいように思うのである。もちろん現代に生きる我々には合わない部分もあるだろう。しかし生きる姿勢として見習うべきなのはやはりソクラテス的なありかたなのではないか。またやや話が反れるが、私は昔から人とよく喧嘩する子であった。というのも自分の価値観や正義観というのが結構はっきりしていて、正しいことは正しい、間違っていることは間違っているとはっきりと言う子であったからである。曖昧にしたり、他の人々に簡単に同調する子供が大嫌いであった。もちろんこの「正しさ」は子供の独善的な「正しさ」なので必ずしも正しかったとは限らないが、私にはこうした譲ることのできない自分なりの「正義」が根底にあったのだと思う。昔からこのように謎の正義感の強さがあったので、プラトンの対話篇で何回も出てくる「本当に正しいこととは何か?妥協をしないで人間に可能な限り何回も検証し、真理を追究する」という態度は非常に自分に合っていた。とにかく世間一般がそう言っているから、ということで善悪を判断したり、物事を解釈するのが嫌だったのである。やはり私は生まれながらにしてプラトンを学ぶように定められていたようである。

 

 そんなこんなでやはり専攻はプラトンになった。そして今は卒論のテーマを模索している真っ最中である。専攻ともなるとただ「無知の知」や「イデア」だけを知っているだけでは済まされず、テクストの細かい精読が求められる。もちろんそう簡単ではなく、日々自分の勉強不足を感じさせられている。しかしやはりプラトンは読んでいて面白い。面白いから諦めないで読み続けることができる。私の人生はざっと振り返ってみて以上のようなものであったので、きっとこれからもいろんな偶然に左右されながらもギリシャ哲学と関わっていくことになるだろう。(もちろんほかの哲学とも)私の長い人生、プラトンに言わせればたった一瞬の生にすぎないが、それでも私がこうしてプラトンに出会ったのはなにかしらの運命だったように思うのである。一匹のアリが奇跡だ!と思い込んでいるだけなのかもしれないが、それでも偶然の力によって私の心の「哲学の火」が灯された以上、それを無駄にするのはもっともプラトンの意に反することである。私は神を信じていないが、やはりこうして身体があって、哲学的な思惟が出来るというのは森羅万象から与えられた最大の贈り物であり恵みであると思わずにはいられない。一体何が正義で何が真理であるのかということはおそらく人間がこれからもずっと問い続けていくことであると思う。答えが出ないから哲学は無駄だと言われるが、答えが出ないのが哲学なのである。一つの答えを出すということよりも、世界は毎日変わってゆくのだからそれにあわせて考えることをやめないということが大事なのである。一つの結論が出るとするならば、それは世界が完結したときだけであろう。(それでも論争が起きそうだが)私は小さな人間で、世界に大きく影響を与えることはできないかもしれないが、それでも先人の与えてくれた教えを胸に、「善く生きる」ことを実践していきたいと心から思っている。それは決して宗教的な怪しいものでもなんでもなく、人間として立派にまっとうに生きることである。そしてそういう人間が増えることがやはり善い世界を作ることになるのだと信じている。世の誤ったプラトン解釈を正す意味でも、一人の人間として自分なりの答えを出すという意味でも、私はこれからも真摯にプラトン研究を続けていきたい。研究者になれるとは思わないが、これからも一生私はプラトンを読み続けていくだろう。

 

※アルキビアデスに傾倒した時期のことなどの面白い話はまた書きます。

ギリシャとギリシアを統一してなくてすみません。面倒だっただけで特に意味はないです。