ソルジェニーツィン 『イワン・デニーソヴィチの一日』

 

 ソルジェニーツィン 『イワン・デニーソヴィチの一日』を読んだ。久しぶりにいい食べ物小説に出会ったという感じがする。この本はロシアの極寒の地の監獄で強制労働を強いられている男の話なので、豪勢な食べ物が出てくるわけではないがそこがいい。特に囚人たちに毎食与えられるカーシャ(お粥)がとても気になった。調べてみるとロシアの伝統的な料理らしい。雑穀のお粥だが、日本のお米とほぼ同じような感覚で食べられているそうだ。ミルクで煮て甘く味付けするものもあれば、ひき肉などを加えるものもあるらしい。ミルク風味のほうは日本人の口に合わないかもしれないが、おかず風のカーシャはとても気になる。どんな味なのだろうか。一体どれくらい腹が膨れるものなのだろうか。いつか成城石井などで蕎麦の実を見つけたら作ってみようと思う。

 

 一年くらい前に、私は食べることにある種の執着があるというような記事を書いた。この小説はまさにあの楽しみをありありと味あわせてくれるものだった。囚人たちが一日にありつける食事はハードな労働量にはまったく見合わないお粗末なものだ。朝は200グラムのパンと(このパンの量ですら理不尽に減らされかねない!)、わずかな肉と魚が入った野菜汁(バランダー)をすする。昼は少しばかりのカーシャ。夜は再びパンと野菜汁。ほかの囚人たちに一食分をおすそ分けしてもらうことができればより多く食べられるというわけだ。身内の者から小包が届いていれば、検閲を通り抜けて生き残ったわずかなソーセージや上等なバター、菓子などを口にすることもできる。しかし主人公のイワンは妻に小包を寄こさないよう言ってしまっているため、その小包が届くことはない。彼は来る日も来る日も同じ粗末なカーシャを食べ、野菜汁の肉や魚の量に一喜一憂するのだ。彼の生きがいは食べ物にある。そして彼はできるだけ腹をひもじくさせないで済むよう、パン一つでも計画的にちびちびと食べる。配給されたときに一気に食べないで、夜や労働の合間に食べられるよう寝床や膝のポケットに隠しさえする。食べるときには口をすぼめ、吸うようにしてパンの味をとことん味わう。カーシャを食べるときも、穀物の一粒一粒を噛みしめ出来るだけ腹をくちくさせることができるよう注意を払って食べる。時々、他の囚人からソーセージなどをおすそ分けしてもらうことがあれば、それを宝物のように大事に扱い、もっともよいタイミングでそれを味わう。タバコや紅茶などの嗜好品も同様だ。「法はときに覆されることがある」と彼は絶望しきったように序盤で述べる。しかし永遠に続くかのように思われる不当な労役の期間を、彼は食べることの大きな喜びに支えられてなんとか生き延びているのだ。もしこの収容所がもっと徹底しているところで、囚人間の物々交換が禁止されていたとしても、彼は自分に配給された分のわずかな食べ物をとことん味わい尽くしていただろう。彼に生きる気力を与えているのは間違いなく食べる楽しみを創造する力である。

「さあ、これからは食べることにすべてを集中させなければならないひとときだ」

 

 何が言いたかったのかというと、私は彼のように小さなことになんでも喜びを見出してしまう人間なので、食べ物を食べるときはいつもこのような心境なのである。私は強制労働をさせられているわけでもないのに一食一食がとても大事なのだ。実家にいると好きな時に好きなものを自由に食べられないのがもどかしいが、大学生になってからは外でいろんなものを自由に食べ歩けるようになったので前よりは満足している。私はジャンクフードでも少し高い料理でもなんでも喜んで食べてしまうが、食べるまで頭の中でそれはそれは長い推敲を重ねる。イワンのようにいつ、何時ごろ、どんなシチュエーションで食べるかが大事なのだ。適当に店に入って食べるのでは楽しくない。スパゲッティが食べたいと思ったら、知っている限りのスパゲッティのお店の候補を頭の中であげ、今はトマトクリーム系の口か、それともたらこ系の口なのか熟考するのだ。そして本当にスパゲッティを堪能できる空腹具合かをよく確かめてからお店に向かう。そして注文して一口一口ゆっくりとスパゲッティを食べる。誰にも邪魔されない至福の時間である。最近のお気に入りはサイゼリアのトマトクリームスパゲッティである。499円でここまで幸福感を得られるのだから幸せな人間なもんだ。なので最近は趣味を聞かれたら「食べ物が好きでよく食べ物を食べます」と答えるようにしている。なにはともあれ、私のような人間は絶対に楽しめる小説だと思うのでぜひとも読んでみて欲しい。