チリの地震

 

3月12日

 

12時に起床。昼食に昨晩の残りのブロッコリーと海老のグラタンを少しと(気持ちパスタ少な目)生のトマトを丸かじりする。デザートは無糖のヨーグルト。そう今私はダイエットをしているのである。とはいえそんなに極端なものではなく、癖になっていたダラダラ食いを止めて、栄養のある食事を心がけようというくらいのものだ。あとは糖分を控えてみたり。お茶をたくさん飲んで体温を上げようとしてみたり。あとはお風呂でかっさマッサージを頑張っている。

 

午後は新宿に徘徊しに行った。行きの電車でハインリヒ・フォン・クライスト短編集の『チリの地震』を読んだ。この本は去年の六月くらいにどこかの古本屋で見つけたものだが、こうして手に取るまで大分時間がかかってしまった。別に震災を意識して今日読んだわけではない。なぜ今日読む気になったのか、それは昨晩に読み終えたフラナリー・オコナーの『賢い血』の訳者あとがきで、『ミヒャエル・コールハース』について触れられていたのを目にしたからだ。『ミヒャエル・コールハース』は読んだことがないが、その名前は大江健三郎の『美しいアナベル・リイ』の中で出てくるミヒャエル・コールハース計画なるものから偶然に知っていた。というわけでひょんなことからハインリヒさんを本棚から引っ張り出すことに決めた。(自分の少ない知識が繋がった瞬間の快感よ!)『チリの地震』の感想としては、震災から3年たちニュースなどで「希望」や「助け合い」などの言葉を多く耳にする今の時期に読むものではなかったという感じである。この作品のあらすじからネタバレまでしてしまうと、修道女が何故か妊娠→ぶっ殺せ!→処刑される寸前に大地震発生→つかの間のユートピア共生感覚の生まれ・命あることへの感謝→やっぱりぶっ殺せ!→女、子供とともに殴り殺される。というなんともグロテスクな話。地震を体験した身としては、災害のあとのあの妙な人々との連帯感は嫌というほどわかるので何とも言えない気持ちになった。「助け合い」とは聞こえのよい言葉だし、そうするべきではあるのだが…果たして人間が本当に心の底からそれを行うことが出来るだろうか?地震という誰もが命を脅かされた状況にあってこそ神にすがるような思いで、他者を救うことは出来ても、日常では難しい。人間とはどこまでも利己的だ。それゆえ人災が起きるのである。災害は人を団結させもするし、より人を野性的にもする。それは本能的なものだし仕方のないことではあるが、それに気付いているかいないかということでは大きな違いが出てくると思う。災害ユートピアなるものについて私は何も知らないので、コメントすることは出来ないが非常に興味深いと思っている。(災害ユートピアってこういう使い方であってるのかな?)特にこの小説の「あたかもあの共通の不幸がそこからのがれ出た人びとすべてを一つの家族と化せしめたかのように、野原には目路のとどくかぎり、領主と乞食、老貴婦人と農婦、官吏と日雇人夫、僧院長と尼僧、とあらゆる階層の人間がごたまぜにまじりあり、同情を寄せあい、たがいに助け合い、生命を保つよすがとなりそうなものをよろこんで分かちあうさまが目撃されたのである」(P.24)という一文が印象に残った。話は戻るがそもそもなぜこの本を買おうかと思ったのかというと、高校生のころ尊敬していた先生が震災の直後「売り切れになるかもしれないから見つけたら買っておいたほうが良いかもしれない」と言っていたのを覚えていたからである。…確かにこれは一読の価値ありだと思う。ところでクライストさんは34歳で女性を射殺して自身もその後その銃で自殺というなかなかクレイジーな生涯を送っている。これからもっと色々読んでみよう。最近やっと本読む気になった。

 

帰りは誘惑に負けてベーグル買いました。